今回は知人に < 『何故レーサーになったのか?』 とのリクエストがあったのでその辺に触れて見ようと思う…。
中学生の頃、テレビで何気なくF1を見ていた。
そう、鈴鹿で行われていた日本グランプリである。
ある意味、僕の人生を変えた日でもある。
僕はF1という世界にどんどんのめり込んでいった。
F1、そしてレースというもの全てが新鮮に見え、とにかくドライバーもレーシングカーもカッコ良く見えた。
いつしかF1ドライバーを夢見るようになった。
レーシングドライバーになりたいと思ってもどのようにすればレーシングカーに乗れるようになるのかを知る術もなく、時間だけが過ぎていった。
僕の家はレース好きな家庭でも無ければお金持ちでも無い、比較的馴染みのありそうなカートをやっていた訳でもない…。
『レーシングドライバー』 になると云う事が凄く特殊にも思えた。
高校を卒業した僕は、熱い何かを求めてイタリアに留学することにした。
何故イタリアか?
小学3年生の時、一年間母親に連れられてイタリアに行っていた事がある。
その当時、イタリアの小学校に通っていたのだが、すごく楽しい思い出があった。
あれから数年、ラテンの雰囲気を感じに行こうと思い、イタリアに渡ることになる。
イタリアでは、F1なども見に行った。
イモラサーキットに行き、セナの死んだタンブレロコーナーを見た時、熱いものを感じた僕はセナの銅像の前で誓った。
『絶対にドライバーとしてここに帰ってくる。』
それからは、クルマ雑誌を見たりしてとにかく情報を集めた。
日本に帰国後、親にレーサーになりたいことを伝えた。
1995年冬、ある雑誌にレーシングスクールの広告が掲載されていた。
F1ドライバーとして有名なプロストや、ジャン・アレジの卒業したフランスの 「ウィンフィールド・レーシングスクール」 である。
その時 『これだ!』 と思い、世界で通用するドライバーになりたいという夢を膨らませ、アルバイトをしてレーシングスクールに申し込んだ。
『どうせやるなら世界で!』 と云う意思を基に夢を膨らませてフランスに渡った。
レーシングスクールは一週間のツアーになっており、朝から晩まで車漬けである。
レーシングスクールではレーシングカーを安全且つ円滑に走らせる為に様々なトレーニングを行う。
1.座学:簡単にレーシングカーの取扱方(装置等)を学ぶ。
2.走行:簡単な座学の後は早速走行。
とにかくマシンに慣れることを最優先にスクールは進んでいく。
走行では、(ブレーキング→ヒールアンドトゥー→シフトチェンジ→コーナリング(ライン取り)→コース周回)といった順にカリキュラムが進んでいく。
ここで基礎を作り上げていく。基礎が出来ていれば、ステップアップした場合や、乗りにくい車に乗っても常にマシンの状況を把握し、
車の限界を知る事にも繋がる。
どんなマシンに対しても応用が利くようになる事は、やはり大事である。
F1などを見るとドライバーは皆淡々と乗っているように見えるが、実際レーシングカーを操ってみると非常に難しく、
速い車に乗るのでは無く車を速く走らせると云う事の違いを改めて実感出来ると思う。
はっきり言ってこの時の僕は、車の運転を甘く見ていたのかも知れない。
乗用車の運転の延長としてとらえていたら大間違いである。
しかし、そこには今まで経験した事のない身体の奥底から感動を覚え、益々やる気になっていった。
フランスから帰国した僕は、レースに出る為に資金を作ることに専念した。
働く事に時間を取られる為、レーシングカーに乗れない事が焦りに繋がり、日々ストレスとの戦いであった。
『レースをする!』 という目標の為、決して諦めることはなかった。
やっと資金の準備に目途がたち、どこの国のどのカテゴリーのレースに参戦するかを調査した。
レースを始めるにあたり、入門カテゴリーからの参戦が望ましいと考えた。
海外の入門カテゴリーと言えば、 「フォーミュラ・フォード」 というカテゴリーが有名である。
多くのF1ドライバーがレースを始めたカテゴリーであり、マシンコントロールやレース運びなどを学ぶにはすごく良い環境である。
もちろん僕の頭の中には海外しかなく、その環境がイタリアには存在する。
1998年、イタリア行きを決意した。
イタリアはあのフェラーリの国、車が好きな人間だったら誰もが憧れる車ではないだろうか。
将来フェラーリでF1に出たいと思っていたし、僕はセナの銅像に誓っていたのだ、絶対にレーサーとして帰ってくると…。
僕はイタリアのレーシングスクールとコンタクトを取った。
そして、フォーミュラ・フォードのマシンに慣れる為にレーシングスクールに入校。
レース参戦するのである。…夢への第一歩が始まった。 |